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2004年 8月1日 私と中池見との関わり(講演会にて・・・) |
敦賀市議会議員 岡本 正治 |
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まず自己紹介から申し上げます、まず岡本家の生い立ちと樫曲の関係から話しをいたします、岡本家は代々樫曲に居住していました戦前は祖祖父が早くいなくなり小作農家であったので祖父が市内にでて事業を起こし父が樫曲の家を継ぎ兼業農家となりました。祖父は布田町に事業を兼ねて居宅を構え、そして私は父や母と共に樫曲の岡本家で長男として生まれ育ったわけでございます。 当時、私の幼少の頃は母が農業を行い、父は事業という兼業農家でした、約8反ほど水田を耕作していましたがほとんど母が農業を担当していたので子育ては、農作業のあいだは近くで子供を遊ばせるぐらいでした。例えば秋のシバ刈りは当時深山などで行なっていましたが、そんな時私たちは池見の水路で魚釣りや、カラス貝を取ったりして遊んでいました。また、小学生のころは中池見の周辺の山々でアケビやいろんなものをとって食べて遊んでいました。 当時の農作業はほとんど人力で行なっていました、私も高校生になると父の変わりに時々農作業を手伝うようになりました。中池見は特に深田が多かったわけですが、かえってその方が人力で田を耕す場合は都合がよかつたのかもしれません。岡本家の水田は堀切、分田、中四反田に分かれていましたが、中四反田が一番深くて耕運機も入らない田でした、他の水田は多少浅かったので耕運機を使って耕作していましたが、根木(ネキ)がいたるところにありその場所を覚えておかないと大変な事になります。根木に片輪を引っ掛けると耕運機が急旋回してしまい飛ばされるかハンドルで打たれてしまうからです。又中四反田の水田は田船を使用して稲刈り等おこなっていました。私の記憶では中江の道路はすでにあったので、刈り取った稲はむ最初はリヤカーで運搬していましたが昭和40年頃からは耕運機に運搬車を牽引したり、軽トラックを使用していました。しかし田の中の運搬は人力のみでこれが一番きつかった事を思い出します。時々刈ってしばらく稲を束ねて田んぼの中に置いておくと丁度自分の住家に条件が似ているのか,勘違いした蛇も一緒に運ぶ時もありました。 うちの母は出かける時必ずテゴを腰にさげてその中にはいつも鎌をいれていました、この鎌は勿論作業にも使いましたが護身用でマムシをとったりする時やその他の小動物を追っ払う時に使ったんだと思います。母はもともと樫曲生まれで隣の家に嫁いできたわけで生まれた時から中池見もよく知っていたんだと思います。 昭和35年ごろまでの農業ではたいした農薬や化学肥料も少ないせいか、中池見の水路には多くの貝やフナがいました、うちの小細谷口の田の横の小川では蜆がとれていました。しかしその後急激に効能の高い農薬が使用されだすととたんに魚類が減っていきました、多分昭和60年ごろまでは相当強い除草剤や化学肥料が使われていたと思います。私の母も一時再生不良性貧血になった事がありました。当時は農薬の管理の方法も徹底されていなかったのでほとんどマスクや手袋を使う事もなかったので、私の推測ではそれによっておきた病気ではなかったかと考えられます。 そのせいか、不治の病気だといわれていた母が農作業を止めた数年後にその病気は治りましたが、現在は他の病気で入院しています。確かに今考えてみると中池見の農作業は大変な重労働だったと思います。母の昔の姿を思いだすと其の事が痛烈に感じさせられます。 私ごとですが母には忙しくて小学校に入る時でも自分の名前さえまともに教えてもらえなかった様に記憶しています。本当に一年365日嵐や雪の日でさえ納屋で仕事をし、農作業に明け暮れていました。 しかし、我々は子供の頃は中池見を中心とした樫曲の地域は大変自然に恵まれていました。瓜生保の墓から現在のキンキクリーンのあたりまでも山や川を舞台にまさに野生的な遊びを満喫していました、特に木の芽川は今と違い土砂の堆積も少なく現在の神社の下は子供にとって適当な深さもあり泳ぐには適した場所でした、その次はキンキクリーンの前のあたりでそこは深くて危ない位でした、また第一トンネルの上流が景観もよく鮎も多くて木の芽川でも一、二の場所ではないかと思われました。これらも砕石所が出来てからは随分景色が変わりました。今木の芽川はキンキクリーンから下流からJRまでは敦賀市の中でも最も危険なところであると思われます。 中池見の水についてですが、この事は昔から大変でした、堀切と分田については山からの清水でまかなっていましたが、足りない時は江(水路の事)からポンプでくみ上げていました。元来高低さの少ない場所であり山からの清水に頼っていたわけですが敦賀も段々と雪の降雪量が少なくなってきたので、20年前ごろから木の芽から送水しないと水不足になったわけです。 本来、中池見は周りの山々、手筒山・深山(御山)・中山の三つの山々からの湧水によって農業用水が賄われていたわけです。しかし戦後の高度成長期に敦賀セメント工場のダストが北風で手筒山の中池見側を真っ白にしていましたし、その後も降水量の低下と温暖化によって水不足が続き木の芽川より送水する事によって農業用水を確保してきました、まさに戦前の中池見から比べれば自然環境は格段の違いがあると思います。またこの三つの山も夫々に特徴があります。手筒山は皆さんも良くご存知ですのでふれませんが、深山は多少高度もありますし土壌も肥えていて植林には適した山かも知れませんが、戦時中はマンガンを採取していたと聞いています。そして昔は樫曲の地区のシバ刈り山であったと思います。又、中山は肥沃な山ではありませんでしたが一部木崎山に似たところもあり、子どもの頃はよくこの山で遊んだ事は記憶しています。 全体的に樫曲より北の山々は昔はよくマツタケも採れたようです。私も中学生の頃旧の街道を樫曲の北側からそれて山を尾根伝いに越坂の方に登って行く途中マッタケを見つけた事もありました。しかし今では自然環境は随分この約30年ほどで大きく変化をした様に思います。私も時間があればこの周辺の山々をもっと探索したいと思いますが、いつになればと言う事です・・。 |





